ヒーローと責任 もしくはヒーローとしての責任

先日ついに「スーパーサラリーマン佐江内氏」が完結した。全10回、ゴールデンなのに深夜のノリで本当に見事に作り上げたドラマだった。

もともと原作とは全然違う話になっていたんだけど、さすが福田監督。きっちりと作り上げて来たなあと言う感じでした。

 

最終回では今までのコメディから一変したと、個人的には思う。佐藤二郎さん扮するフリーターが毎回面白かったんだけど、それがまさかのキャプテンマン!として、スーパーマンのまとめ役だったことが明かされ、そして毎回佐江内と初対面のように書かれるのは、忘却光線で忘れさせていたから・・・とは。

(余談だけど立ち位置とかデザインとか、バードマンだよね。でも顔がでかい・・・)

 

最終回、というか実は禅話を通して作品のテーマは「責任」なのだと思う。

もともと日本でもアメコミでも、ヒーローがヒーローとして存在する理由が「力を持った者の責任」じゃないかな、と思ってる。

仮面ライダーしかり、戦隊ものしかり。アメコミではそれがしっかり描かれている。

スパイダーマンなんて「大いなる力には大いなる責任が伴う」事がヒーローとしての活動源だし、キャプテンアメリカも超人血清を飲んだのはアメリカ国民として責任を果たしたいからだ(実はここが誤解されるもとでもあるんだけど、キャップについてはまた別に語りたい)。

 

しかし、佐江内氏は責任を背負いたくないとはっきり言っていた。最初からヒーローどころか会社でも家庭でも責任を持ちたくないと言って憚らない。

だけど会社では(ダメと言えども)係長だし、家庭では愛妻と子供が2人。どう考えても責任はついてくる。

そこにヒーローとしての責任が加わり、否が応でもヒーローとして活動していてそれなりに人助けをしてなじんでいっているのかと思った。

 

だけど最終回で、あと1秒の大きさを思い知らされたのをきっかけにすべての責任を放棄する。そして自分が存在しない状況になったときに初めて責任の重要さを知ったような気がしてならない。

 

結局は奥さんの為にスーパーマンに返り咲き、責任を持つことの大切さを実感したように見える。仕事でも部下を激励し引っ張り、家庭では家族愛があふれている。

この時に本当の意味でヒーローになったのだろう。

 

第9話までは本当にコメディとしてみていたけど、最終話ですべての伏線がつながるというのは本当に驚愕した。そして終わってみればコメディではなく、大人に対しての人生訓のようなドラマだった。本当に福田監督は鬼才だし奇才だ。

 

・・・と書いたけど、福田監督そこまで考えてたかなあ?とも思うよねえ・・・本当のところどうなんだろう?